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学は小成に安んずべからず <安達博士の座右の銘> |
安達峰一郎博士は、明治2年(1869)、高楯村(現山形県山辺町高楯)に、久・しう夫婦の長男として生まれた。幼少のころから、近くの石川尚伯医師が開いている寺子屋「鳳鳴館」で学問の手ほどきを受け、
6歳で東京の雑誌に詩文をよせるほどの神童ぶりを発揮した。その一方で、年上の子供らを部下にして隣村の子供達と石合戦をするなど、腕白ぶりを物語るエピソードもたくさん残っている。
明治15年、山形師範学校中学師範学予備科(現山形東高校)に入学したが廃校となり、明治17年、東京の司法省法学校に応募し、志願者1千5百余人の難関を、最年少で、しかも2番の成績で合格した。
第一高等学校(旧制一高)を経て、(東京)帝国大学法科大学に進学した。安達青年は語学の勉強も熱心で、在学中に、フランス語・イタリア語・英語をマスターし、外国人教師の授業の通訳も勤めた。
明治25年、大学を卒業し高沢鏡子と結婚、外交官試補に合格した。翌年公使館書記生となりイタリアに赴任。海外での活躍が始まった。
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對賢堂 |
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博士が生まれた安達久左衛門家は代々、向学的雰囲気に満ちた家風であった。祖父は對賢斎といい自室を「對賢堂」と名づけ、寺子屋を開き、近隣の子弟の教育の場としていた。父親の久も、小学校の教員を勤めるなど厳格で教育熱心な人で、後に村政にもかかわり、明治30年、山辺町第2代町長に就任した。
「對賢堂」の酬恩碑が、今も残されている。 |
最後の帰郷となった大正6年、生家と両親と一緒に撮った写真 |
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安達博士の生家 |
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安達峰一郎博士の生家と敷地は昭和37年(1962)、鏡子夫人により「将来の日本を背負って立つ子供達のために使って欲しい」と町に寄贈されました。町は、この土地に幼児教育の場として「安達峰一郎記念保育所」を建て、生家も残した。平成11年、安達峰一郎記念保育所を現在地に新築移転し、北部公民館(愛称・安達峰一郎記念対賢堂)を建て、その一室を「安達峰一郎博士資料室」としている。 |
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開 館 日 : |
月曜日〜金曜日
(祝日、年末年始を除く) |
開館時間: |
午前8時30分〜午後5時
ただし、事前申込により随時開館します |
入 場 料 : |
無料 |
■お問合せ先 |
安達峰一郎記念対賢堂(山辺北部公民館)
TEL. 023-667-0551
FAX. 023-667-0552 |
安達峰一郎博士顕彰会(町教育委員会社会教育係)
TEL. 023-667-1115
FAX. 023-667-1116 |
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生家へのアクセス |
住所: 山形県東村山郡山辺町大字山辺975 |
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現在の生家の中(一部) |
現在の生家の中(一部) |
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両親と撮影した
最後の写真 |
記念碑
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直筆の
望郷の歌 |
安達久左衛門家の墓と博士の顕彰碑
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(
公益財団法人)安達峰一郎記念財団 |
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〒160−0004
東京都新宿区四谷1-13 オパス・ロイヤル307
TEL. 03(3341)5036
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