「国際法=力を正当化する便宜的な道具」とするB型の国際法観念は、明治期の支配的な国際法観念をなした。明治政権の指導者たちは、いずれもこのB型の国際法観念を有していた。例えば、岩倉具視は、「万国公法」などは、言わば国際判例集のようなもので、「恃ニ足ラズ守ルニモ足ラザル」ものと述べ(1869年)、木戸孝允は、「万国公法は弱を奪う一道具」(1868年)とし、山県有朋は、「万国公法」などは「強者ハ名義ヲ借リテ私利ヲ営シ弱者ハ口実トナシテ哀情ヲ訴フル具タルニ過ギザルノミ」という持論(1880年)を有していた。
福沢諭吉もその例外ではなかった。福沢諭吉は、在野にあって明治政府のお師匠様を自負する明治期日本の巨大なイデオロギーであった。福沢諭吉は、「国際法=力を正当化する便宜的な道具」とするB型の国際法観念の典型的に強烈な保持者であった。「英人・・・其処置の無情残刻なる実に云うに忍びざる・・・欧人の触るる所・・・草も木も其成長を遂ぐること能はず。・・・人種を殲すに至るものあり、・・・其交際に天地の公道を頼にするとは・・・迂闊も亦甚だし」(『文明論之概略』1875年)。「百巻の万国公法は数門の大砲に若かず、幾冊の和親条約は一筺の弾薬に若かず。大砲弾薬を以て有る道理を主張するの備に非ずして無き道理を作る器械なり。・・・各国交際の道二つ、滅ぼすと滅ぼさるるのみと云て可なり。・・・我外国交際法は、最後に訴る所を戦争と定め・・・」(『通俗国権論』1879年)。
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