@ 「第2回ハーグ国際平和会議の日本代表」(安達記念財団「世界の良心安達峰一郎」)
外務省保存の安達博士の履歴書に「第2回ハーグ国際平和会議出席」の記述がないの
で、外務省資料室に調査してもらったところ、国内での準備委員に任命されて働いた
が、何らかの理由によりハーグでの会議には出席しなかったことが判明した。
A 「安達の生家は貧しい農家」(後藤嘉一著「雑誌「もがみ」第15巻第8号」)
後藤氏は同誌に「郷土の先駆者・安達峰一郎」の「貧しい農家に生まれた峰一郎は正
規の学問をする事が出来なかった。」と書いている。しかし、現存する安達博士の生家
は 、江戸時代としては珍しく土間を除き全室床張りで、建材も確りしたもので、一
見して貧農でなかったことは納得してもらえる筈です。
B 「安達博士の死因は慢性心臓内膜症」(後藤禮三著「安達久左衛門とその周辺」)
「安達峰一郎研究最前線No.1」で明らかにしたとおり、安達がメキシコで罹った風土
病は「重い肝臓障害」であり、このとき心臓に異常はなかったのでる。従って、後藤
氏が安達博士の死因を「慢性心臓内膜症」としているのは誤りで、少なくとも「慢性」
は削除すべきである。
真相は、日本の国際連盟脱退の重圧から、昭和9年6月初旬から不眠症に悩まされ、
それが原因で体調を崩し、やがて神経衰弱に陥った。そして8月に心臓病を併発した
ためにオランダのアムステルダムの病院に入院することになったのである。直接の死
因は心臓病の悪化であった。
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