安達博士生家見学者から時々次のような質問を受ける。『安達博士の伝記を読むと、博士
の生まれ在所について、ある本には「高楯村」とあり、別の本には「西高楯村」とある。
どちらが本当ですか』と。正解は「高楯村」。理由は次のとおり。
安達博士の先祖は1450年頃(室町時代)から高楯村に住んでいた。当時、高楯村は最上家
の領地であったが、1621年の最上家のお家断絶後は幕府領となった。その後、高楯村は1668年
(寛文2年)に相給(1つの村を複数の領主に分け与えること)となり、東半分は幕府領
(後年、天童織田藩領)のままであったが、西半分が旗本高力家領となった。相給の趣旨から
両地域とも高楯村であるが、前者を「織田領高楯村」、後者を「高力領高楯村」と呼んで区別
した。ちなみに安達博士の先祖の家は、後者の地域に属していた。
江戸時代が終わり、明治
5年10月の地方行政区画編成法の施行と期を一にして、高楯村が分村して“東高楯村”と
“西高楯村”が誕生した。しかし、明治18年4月に、山野辺村、深堀村、東高楯村、西高
楯村の4ヵ村が合併して山辺町となった。こうした経緯により、東高楯村、西高楯村の村名
は、たった13年で消滅し、現在に至っている。
以上のことから、明治2年生まれの安達
博士の生誕地は「高楯村」が正解である。
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