J「鏡子は、昭和37年5月17日朝4時ついに死去した。」⇒ 命日は6月17日。
K「安達家に生涯を捧げた松本とみは、鏡子死去の前年の昭和36年に死去した。安達記念館
(現安達記念財団)によって建てられた墓は山形市七日町、その甥に当る住職の寺の墓地、
先祖以来の墓地に同居している。」
正しくは・・・・ ↓
「安達家に生涯を捧げた松本とみは、鏡子に先立つこと半年前の昭和37年1月2日に死去
した。安達記念館(現安達記念財団)によって建てられた墓は山形市鉄砲町(町名変更により現・八日町)の宝光院にある松本家先祖代々の墓地に母親と一緒の墓に眠っている。」
現在この「松本とみと母親の墓」は、とみの生家である聖徳寺(山形市三日町)にある
松本家先祖代々の墓地に移転され、とみは母親と一緒の墓に永遠の眠りについている。
付 記 ( 誤記ではないが・・・ )
L今井氏が「 鏡子が昭和32年までブリュッセルを離れられなかった理由は
筆者の知らないことである。 」と書いているが・・・
真相は・・・ ↓
昭和9年、峰一郎の死去とともに日本が軍国主義国になってしまったため、鏡子は夫妻の真
の理解者が多く住むベルギーに居を移し、夫の遺品整理にあたる。間もなく第2次世界大戦が
始まり帰国の機会を失った。そして、大戦が終了した後も、戦勝国側が発した「敗戦国の一般
市民の私有財産国外持ち出し禁止令」が解除されず困っていたが、吉田茂元総理の尽力を得
て、安達博士の遺骨や遺産と一緒に帰国できたのである。
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