安達博士の本格的な伝記がない現在、小説家・今井達
夫氏(安達博士の妹の嫡男)が書き残した「ハーグにささぐ」は、安達博士研究の重要な資料であることは言を待たない。しかし、この「ハーグにささぐ」の記述の中には、前記No.1〜No.4の問題以外にも20項目ほど、気になる見解が書かれているので、その中の幾つかを指摘し訂正しておきたい。
D 「峰一郎の父・久は村長や小学校長を歴任した」? 真相は・・・
今井達夫氏の「ハーグにささぐ」に、「峰一郎の父・久は、村長や小学校長を歴任した」
とあるが、これは間違いで、真実は「小学校の教員や山辺町の町長を務めた」である。
なお、父・久はリューマチのため、町長在任は1年3ヶ月のみであった。後年、久は、外国
勤務の峰一郎の要請に応えて、転地療養を兼ねて夫婦で上京し、峰一郎の留守宅で、孫たちの
後見役を務めていた。大正7年2月、久は自宅で死去した。享年71歳。
E「峰一郎は1人で山形から仙台に抜け、釜石から海路東京に出た」? 真相は・・・
今井氏の「ハーグにささぐ」に、峰一郎の上京について上記のとおり書かれている。
ところが、安達が上京するときのことが、峰一郎自身が、明治22年10月1日付で高澤
鏡子に宛てた手紙の中で「山形師範学校の横川書記官が引率してくれた」と書いている。
師範学校の職員が引率したということは、司法省法学校受験者が安達1人ではなく数名
いたことを意味している。また、安達が関山トンネルを通って仙台に出て、塩釜から、
海路鰯船に乗って東京まで9日かかって行ったとも峰一郎が語っているのである。
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