大正8年1月、第一次世界大戦の戦後処理のための講和会議がパリのベルサイユ宮殿で開催され、関係33ケ国の代表が一同に会した。各国の代表である全権は60名にも及び、随員団を含めると1000名を超え、人類史上未だ経験したことのない一大国際会議となった。日本は西園寺公望主席全権以下、牧野、伊集院、松井、珍田を全権とし、随員を含めて60余名の全権団をフランスに派遣した。しかし当時の日本には国際情勢に明るい人物が少なく、西園寺・牧野・松井等が協議して、当初全権団のメンバーに加わっていなかつた安達ベルギー駐在公使が、代表代理として加わることになった。西園寺が表方であれば、安達は裏方に徹し日本の国益を重視した実務的仕事に専念し、多くの成果を残した。鏡子夫人の歌集に、当時の模様が次のように詠まれている。
「 君は征く巴里への会の講和へと 寒冷えきる汽車に定席のなし 」
ゆ ひ
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