大正6年夏、ベルギー公使を拝命した峰一郎は久ぶりに里帰りし、親戚や友人と久ぶりの再会を楽しんだ。これが両親との最後の別れとなることを誰が予想したであろうか。国内での案件を済ませると、早速ベルギー赴任の検討に入った。時は第一次世界大戦真只中で、特に欧州は最大の危険地帯であった。輸送船は悉くドイツ潜水艦の無差別攻撃の的となり大半が海中に没した。そのため峰一郎は、慎重に慎重を重ねて陸路シベリア鉄道を選んだ。長女功の夫・武富敏彦も外交官としてフランス国赴任の辞令を受けて同行した。その行程は、東京―福岡―釜山―ハルピン―モスクワ―ベルゲン(ノルウェー)。ここからフランスまでの船旅が最大の危険海域で、峰一郎は英国海軍の軍艦に乗り、英国のアバデイーンを経由して仏国のル・アーブル港にやっとの思いで到着できた。そして、ホッとする間もなく峰一郎は直ちに戦乱のベルギーに向かった。
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