明治30年2月、峰一郎はフランス勤務を命じられた。翌3月、上司の曾禰公使が転出し、6月に栗野慎一郎新公使が着任した。3年後の春にパリ万博が開催される事になっており、公使館は慌しかった。早速、万博の事務次官を拝命した峰一郎は、林忠正事務総長、斎藤甲子郎、宍戸猛書記官らと日本展示会場の企画立案・建設・集客調査等、万博に関する一切の業務を着々と推し進めた。当事のヨーロッパは、ジャポニズムブームで、万博は大変な盛況を博した。将に近代国家日本の夜明けであった。
「 此かた方は、桂公等とその昔 優秀びと人と欧留学を(事務総長・林忠正氏) 」
「 此とき時代に 此任地には二ツ位置 君は持ちたり 巴里博ありて 」
「 さかし聡明やな 人のこころ心情も感謝をも 尽してこと公事のすす進行み行くのを 」
(鏡子の歌集より)
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