峰一郎が、陸奥外務大臣からイタリア国赴任の辞令を受けたのは明治26年7月28日であった。当時日本は、幕末に外国と締結した不平等条約の改正が明治政府の避けて通れぬ命題であった。そのため政府は、外交能力に優れた人材を当事国に派遣し、条約改正を急いだ。将に峰一郎は、外務省の思惑に叶う人物であった。しかし、妻が妊娠中で無理はできない。峰一郎は実状を妻・鏡子に伝え、彼女の意見を求めた。こうして2人の進路は決まった。大枠は2点、@峰一郎のイタリア赴任は単身で行う。A鏡子は出産後、子どもを久夫婦に預け、体調が回復し次第渡欧する、というものである。峰一郎は満足顔で頷き、書斎に戻って手紙を書いた。一通は父久に、もう一通は、イタリアに半年前に帰国したパテルノストロ先生に宛てたもので、峰一郎の心境と実状を伝える手紙であった。
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