峰一郎は、明治25年9月、外務省試補として採用された。明治26年2月14日、峰一郎は林次官から執務中に宮城浩蔵の容態悪化を知らされた。この知らせを聞いた峰一郎はすぐ豊島郡(現豊島区)の赤十字病院へ駆けつけた。病室には近親者や学校関係者など大勢詰めかけていた。峰一郎は恩師・宮城浩蔵の枕もとで「先生・・・」と必死に呼びかけた。宮城が一瞬頷く。重ねて呼びかける。しかし反応はなかった。主治医の懸命の治療にも拘わらず、やがて宮城の脈と呼吸が停止した。主治医が「只今、宮城先生ご臨終です」と静かに告げる。その瞬間、すすり泣く声が病室に満ち溢れた。峰一郎の目から涙が止めどもなく流れ頬を伝わり床に落ちた。峰一郎の追悼文「吊宮城浩蔵先生」が、明治法律学校(現明治大学)の「明治誌叢12号」に掲載されたのは、その10日後であった。
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