峰一郎の学生時代は日本の黎明期であり、教育制度も目まぐるしく変化した。試行錯誤を続けながら改革が成された時期であった。また、明治23年の国会開設にあたり、自由民権運動の盛り上がりが各地で起こり、弁士を招いての「演説会」が頻繁に開かれていた。大学生等も5大校が中心になって討論会や演説会を盛んに開催した。峰一郎は花井等と互いに競い合い切磋琢磨していた。そんなある日、学園祭の演説会で、峰一郎の演説をメモを取ながら熱心に聴き入っている政府の高官がいた。間もなく、外務次官の林董より榎本武揚外務大臣に、峰一郎の身上調書が上げられた。榎本は調査書を読み、思いを深くしていた。
鏡子夫人の歌集より2首。
「外相も生徒時代に屡々と 文化の会に君を知られし」
「外省へと 師の君方は熱せられ 採用あれと 榎本外相へ 」
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