峰一郎は東京遊学に当たり、確かめたい思惑があった。それは「関山新道開削問題」である。「理想の論理と実践」を自分の目で確かめ、これから進むべき進路を確実にしておく為の布石であった。
明治9年、山形県が統一されると、酒田より三島通庸が初代県令として着任した。三島は明治政府要人の強力な支援体制を得ており、土木工事を第一に考えた県令は、各地で住民との軋轢を引き起こしていた。行動は間断なく、素早かった。
明治12年、関山峠を予定線と決定すると、13年起工、15年には早くも「関山新道」の完成を見た。三島は落成式に転勤地福島より駆けつけ、苦労の想いを二首詠んでいる。
「山を貫き谷を埋め 幾千世も通う車の道となりけり」
「関山の木の根岩道開くるとも君が恵みの有れば成りけり」 |