8.「安達が上京に先立ち仙台の宮城浩蔵宅に寄寓」は事実無根

安 達 尚 宏

 昭和15年に山辺郷土史研究会が出版した「郷土史読本」に、「16歳の冬、安達は向学心止み難く故郷の山河を後に、いよいよ勉学の途へ鹿島立ちした。仙台へ。関山峠を越えて30里、宮城浩蔵の許に身を寄せた。」とある。また、郷土史家の故武田泰造氏も「山辺郷土概史」で、「向学心に燃える安達博士は、父母に将来の志望を披歴して東京遊学を決意した。
伝手を求めて郷党の先輩・宮城浩蔵を仙台に訪ね、しばらく其処に寄寓していたが、その指示により東京遊学の希望を果たすことが出来るようになり、官費7ヵ年制の司法省法学校に応募し、2千5、6百人の志願者中2番で合格した。」と書いている。
  これらの記述が先入観となり、安達峰一郎研究が多くの誤りを犯し、その影響が今日に及んでいる。安達峰一郎研究の進化により、真実が次第に明らかになってきている。

①宮城浩蔵は、明治維新後、天童織田藩の選抜生として司法省法学校に学び、同校卒業後、成績優秀によりフランスに留学。同13年6月帰国し8月に検事を拝命した。そして明治14年1月、宮城、岸本、矢代の3名で明治法律学校を創設。同年10月に判事を拝命した。安達が上京する明治17年頃の宮城は、明治法律学校の授業が日常的にあり、且つ、法律取調委員を拝命する等、仙台に居を移すことなどあり得ないことであった。
従って、「峰一郎が仙台の宮城宅に寄寓した」とする説は虚構に過ぎない。
② 司法省法学校が「官費7年制、志願者数2千5、6百人」は、加藤幹雄からもらった手紙に書かれている受験前の予想の数である。「司法省法学校小史」にある「官費8年制(予科4年、本科4年)、志願者数1,500人」が正しい数字と言えよう。